習志野市
新年会で突然「自分の会社なくなる」発表 大慌てのセイコーHD社長 救った電話とは
■消費税が導入される直前の1988年、精工舎で主計係長、その後、初代の秘書課長に就いた。
※セイコーHD社長・中村吉伸氏の「私の課長時代」。前編の「役員全員が辞表用意 株主総会で前代未聞の大失敗」は記事下の【関連記事】からお読みいただけます
消費税導入の半年前、会社の帳票を全て変更するよう命じられました。帳票のレイアウトや交際費の例外処理など、朝から晩まで情報システム課との調整が続きました。約3人のチームで何とかやり遂げました。
秘書課長になると、経理を兼務しながら社長の予定調整などをこなす激務に。当時の山村勝美社長は赤字続きだった半導体会社を完全子会社にし、立て直しました。先見性と実行力を目の当たりにし、社長はこうでなくてはいけないと痛感しましたね。
■96年、セイコーは精工舎の清算などグループ再編に乗り出した。
当時、精工舎はプリンター事業で損失を出し、時計事業なども業績が低迷していました。
忘れもしない96年1月8日、精工舎を含むグループ4社の賀詞交歓会が都内のホテルであり、事務方として控えていました。
ところが、終わったのは予定を大幅に過ぎた午前0時。理由は翌日分かりました。精工舎を含むグループ3社を清算し、2社を設立する再編計画を発表していたのです。自分の会社がなくなるだけでなく、その清算手続きを3カ月弱で進めることになりました。
「間に合わないよ」と天を仰いだその時、電話が鳴りました。相手は以前、当社を担当していた会計士。行き詰まった状況を説明すると「株主と債権者が納得すれば良いんじゃないの」と助言してくれました。ようやく冷静になり、株主である親会社の服部セイコーに再建スキームを提示する決心をしました。
即座に上司に「中央突破しましょう。明日社長に説明し、株主の了解を取ってください」と直訴しました。山村社長が翌日、親会社に出向き了解を取り付け、再編を進めることができました。精工舎がなくなる最後の伝票の『enter key』を押す際は、さすがにちゅうちょしましたね。
■翌年、精工舎の本社があった錦糸町から千葉県習志野市の工場跡地に移転した。
これが「都落ち」かとつらい思いがこみ上げてきました。その時「自分の会社は自分で守るしかない」との思いを強くしました。山村社長の実行力を間近で学んだほか、会社がなくなる経験をするなど私の課長時代はその後の糧になりました。
【あのころ】 クオーツ時計で世界を席巻した日本メーカーに対し、スイスなど欧州の時計メーカーは機械式の価値を訴えてブランド力を高めていった。1990年代に入ると携帯電話の普及もあり、精度などを追究するだけの時代は転機を迎えた。98年、セイコーは一度はやめていた機械式の高級時計「グランドセイコー」を復活させた。